6-2 ナナシノゴンベイ

 パキスタン北部にはヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、ヒンドゥークシュ山脈と三つの大きな山脈が集まっている。世界第2位、8611メートルの高峰K2を筆頭に、8125メートルの、別名「キラーマウンテン」と呼ばれるナンガパルバットなど、8000メートル級の山だけでも5つ。7000メートル級、6000メートル級となれば数十という単位で見ることができる。だから-アリ・ポノが言うには-5000メートル以下の山には名前が無いというのだ。

 本当に名前が付けられていないのか、それとも彼が名前を知らないから誤魔化しているだけなのか、実際のところはわからない。でも、少なくともその時僕達が見ていた山が「写真を写すほどの山ではない」ということは、翌日からのフンザ滞在で十分に納得することができた。実際フンザからの帰り道、同じ場所を通っても僕達はその山を見上げることすらしなかった。

 それでも、まだこの時は、たとえそれが「ナナシノゴンベ」の4000メートル級の山であっても、日本一の富士山よりも遥かに高い山であるわけで、僕達は白銀の山頂が覗くたびに歓声を上げて見上げていたのだった。アリ・ポノは「いつものことだ」という顔をして僕たちを眺めていた。

 そして日が落ちて山の姿も完全に見えなくなった夜8時過ぎ、バスはこの日の宿、チラスという街のシャングリラインダスビューホテルに到着した。

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6-1 ナナシノゴンベイ

 昼食後もバスはひたすらカラコルムハイウェイを走った。ハイウェイという言葉から整備された「高速道路」を連想するかもしれないが、日本の感覚で言えば、山奥のダムの建設現場の工事用道路、といったレベルを想像して欲しい。路面は一応舗装はされているが、穴ぼこだらけ。ガードレールなどはもちろん無く、道幅はトラックがすれ違うのがやっとだ。ところどころ、滝から流れてきた水がそのまま道路へ流れて落ちて来て、道路を横切った後で、インダス河へと落ちていっている。時々、崖から落ちてきた小石が路面いっぱいに散らばっている。これほど「ハイウェイ」という言葉とかけ離れた「ハイウェイ」は他には無いのではないかと思う。それでも昔の道が駱駝がすれ違うのがやっとだったことから比べれば、たしかにこの路は「ハイウェイ」なのであろう。

 そんなハイウェイを、昼食後、さらに5時間以上走りチラスの街へと向かっていく。最初は珍しい風景に、一々驚いて写真なども写していたのだが、あまりに長い時間、乗り続けるため飽きてきていた。リュックに入れてきた本でも読もうかと思ったが、あまりの振動で文字が読めず、すぐに諦めた。一日の記録をメモ帳に書こうかとも思ったが、とてもじゃないが文字など書けるような状態では無かった。結局、僕はずっと窓の外を見続けるしかなかった。

 それでも夕方になると少し風景が変わってきた。見上げる崖の向こうに雪を抱いた山頂が間近に見え隠れするようになってきたのだ。「あの山は何て言う名前なの?」誰かがアリ・ポノに訪ねた。

「ナナシノゴンベイ。」

彼は苦笑しながら答えた。

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5-1 パキスタン料理

 カラコルムハイウェイを走り始めて1時間もしないうちに、バスはベシャムの街に到着した。時刻は既に午後1時半。バスに乗っているだけなのだが、朝食の時間も早かったし空腹も限界に達していた。

 今日の昼ご飯は、PTDCモーテルでバイキング。どんなものが並んでいるのかと楽しみに料理を見ると、わずかに数品が並んでいるだけだった。僕はオクラのカレーとポテトを煮たもの、チキンのフライ、そして米を少し皿に盛り、マンゴージュースを注文した。

 パキスタンはイラン同様、アルコールは飲めないことになっている。「ビール」と頼んでも出てくるものはノンアルコールビールだ。どのみち僕は基本的にお酒は飲まないので関係ないが、好きな人には寂しい旅行になってしまうようだ。

 寂しいのは料理も同様。この旅行中、ほぼ毎日、昼も夜も同じような料理だった。ほとんどの食事がホテルのレストランでのバイキングだったからかもしれないが、どこでも基本は一緒。まずスープが配られ、その後、好きなものを取ってくるのだが、並んでいるものは、どこでもほとんど同じなのだ。羊、鶏、牛の肉を揚げるか煮るかしたもの、ジャガイモなど野菜の煮たもの、たまに魚のフライ、豆を煮たもの、そして生野菜。長粒種の米を炊いたものか、ピラフ。そしてナンかチャパティ。あまり味の良くないリンゴやメロンなどのフルーツと何で着色したのか聞いてみたくなるような派手な色のケーキ、すのたくさん入ったプリン。なぜかお茶は付いてくる。それも必ず変な香りのジャスミンティー。

 こうして書き挙げてみるとけっこういろいろあるように思えるが、毎食同じ、というところが問題なのだ。いろいろあっても、「食べたい」と思えるものは限られているわけで、結果的に皿の上に盛り付けられる料理はほぼ毎回同じになる。

 それでも、まだこの日の昼はこの旅行で最初のパキスタン料理。オクラのカレーを美味しいと感じる余裕があった。インドやスリランカの料理ほど極端に辛くはない味付けにも僕は満足していた。そしてこの時は、フンザからの帰りにこのホテルを訪れた時、何も食べられなくなるとは夢にも思わなかった。

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4-5 カラコルムハイウェイ

 ラワルピンディのホテルを出発してから5時間ほど、バスはチャタール高原を抜け、いよいよインダス河にかかるターコット橋に差し掛かった。この橋がいわゆる「カラコルムハイウェイ」のパキスタン側の起点である。

 カラコルムハイウェイはパキスタンが中国の支援により1979年に開通させた道路。中国カシュガルからカラコルム山脈のフンジュラブ峠を抜けて、ヒマラヤ山脈、ヒンズークシュ山脈の山間部を縫い、インダス河のターコットまでの実に1300キロの距離を結んでいる。主にインダス河と支流のフンザ河の渓谷に沿い急勾配の岩山の斜面を削る形で建設されており、建設途中、約880人の労働者と技術者が犠牲になったのだそうだ。元々、このルートは古来よりシルクロードの一部として隊商や、仏典を求めガンダーラへと渡る仏僧達が往来していたルートで、現在のハイウェイはおおよそ昔の道に沿うように造られている。

 僻地好きの旅行者の間ではこの道は世界最高地のハイウェイとしても良く知られていて、特に中国から国境を越えてパキスタンへ入るルートは人気がある。しかし、もちろん中国とパキスタンは、何も観光客のために多大な犠牲を払い、この道を建築したわけではない。それは「対インド」でこの2カ国が友好関係にあるからだ。普段はこの道路は中国とパキスタンとの間の物資の流通路として重要な役割を果たしているが、一度有事ともなれば、この道を通じて、中国は軍隊をパキスタンへ陸路送り込むことが可能である。いずれもインドとの紛争を抱えている、この2カ国の友好の象徴がこのカラコルムハイウェイなのである。

 そしてバスはターコット橋を渡り、検問を通り抜け、インダス河を右手に見ながらカラコルムハイウェイを走り出した。

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4-4 カラコルムハイウェイ

 バスは曇り空の下、順調に進んでいた。窓の外にはパンジャブの緑の豊かな風景が広がっている。ちょうど収穫時期を迎えた麦畑はまるで黄金色の絨毯をひきつめたように輝いて見えた。通り過ぎる村の中には、時々、らくだの姿も見かけることができた。

 そしてパキスタンの道路は想像していたよりも穏やかだった。もちろん、独特の派手な装飾が施されたトラックが、互いに追い越す際に鳴らされるクラクションは日本よりもかなり威勢が良かったが、その音にインドのトラックたちの過剰なまでの賑やかさは感じられなかった。時々、牛やヤギが道路を横切ることはあったが、インドの様に牛が道路の真中で寝ていることは無かった。

 僕は窓の外の風景を、昨年訪れたインドの風景の記憶と比べていた。インドの風景には、僕はどうにも受け入れ難い「穢れ」のようなものを感じた。それは道端に溢れる動物や人の排泄物や屍。一部の人たちのあまりに貧しい生活。

 パキスタンの風景からは、そうした「穢れ」は感じられない。それはイスラムとヒンドゥーの違いからくるものなのか、それとも南アジアと西アジアの文化の違いなのか。いずれにしても、僕はそれが自分が好きな空気だと感じた。そして、この旅行はきっと楽しいものになる。そう確信した。

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4-3 カラコルムハイウェイ

 バスが出発した時、雨はあがっていた。予報では今日までが雨、明日からは天気が回復していく見込みだ。インターネットが普及するまでは考えられなかったことだが、今は日本にいてもほとんどの国の、それも中小都市まで、天気を知ることができる。僕は1週間ほど前から、訪れる予定のいくつかの街の天気予報を見ていた。

 パキスタンはこの季節、ちょうど雨季に入る前の比較的天候が安定した季節だ。それでも東京でも雨が少ないはずの真冬に雨や雪の日があるように、ちょうど僕達が訪れる日まで4日間ほど雨が降り続いていた。

 僕が初めて訪れた海外旅行はパリやロンドン、スイスなど西ヨーロッパの主な都市を周遊する旅行だった。季節は3月の終わり。今思えば春先の気候が不安定な時期だったのであろう。ロンドンの曇り空は、いかにもロンドンらしかったが、花の全く無いベルサイユ宮、外が全く見えないユングフラウ・ヨッホ、大雨のパリ。それはそれで趣が無いわけではないが、やはりその場所が一番美しく輝く季節に訪れるのが良い、ということを強く感じた旅行だった。

 以来僕は、旅行のときに季節をとても気にする。もちろん、最善を尽くしてダメならそれは仕方が無いが、知らずにあまり良くない季節に訪れたのでは後で後悔が残る。

 今回、パキスタンの地を選んだのは、この季節が一番良いと思われたからだった。特にこれから2日間かけて訪れるフンザは、急峻な峰が連なるカラコルム山脈の麓の地域で、晴れていれば数多くの7000メートルを超える頂を間近に見ることができる。もちろんフンザの魅力は山だけではないし、僕も必ずしも山を見たくて訪れたわけではないが、見えないよりは見えるほうが良いに決まっている。

 そして何よりも大雨の中カラコルムハイウェイを走ることがいかに危険かは、4月に起きた邦人の死亡事故でもあきらかだった。僕はバスの窓から曇り空を見上げながら、このまま天気が回復するように祈っていた。

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4-2 カラコルムハイウェイ

 出発時間の10分前にロビーへ降りていくと、既に荷物はバスへ積み込まれていた。普通の観光バスだと荷物はバスの下部に積まれるが、今回はマイクロバスなので、大きな荷物は全て屋根の上のキャリーへ積まれる。積まれた荷物は上からビニールシートで覆われて、雨が降っても濡れないようになっていた。

 バスの座席は中通路を挟んで右側の座席が2人掛け、左側が一人掛けだった。20人乗りのバスを10人で、と言っても、ガイドや添乗員の座席が取られるので、全員が2人分を使えるわけではない。それでも2人掛けに2人で座らなくて済むので、楽な事には変わりは無かった。こうしたバスを利用したツアーでは、時として座席を巡り殺伐とした雰囲気になることがある。元々、全く見ず知らずの人たちが狭い車内に長時間閉じ込められるのだから当然と言えば当然で、この辺の対応が旅行会社の評価にもつながるようだった。今回は同じバスに乗る10人を3つのグループに分けて、毎日順番に一つのグループが前の席、残りのグループは残った座席に自由に座って良いことになっていた。この日、僕は一番後ろの席に座った。

 午前7時、ツアー客20人にガイドとアシスタント、そして添乗員を加えた23人を乗せた2台のバスは護衛の車を従えて、この日の宿泊地、チラスへと向けて出発した。そう、この旅行には銃を持ったガードマン2人が常に護衛として付いてくれている。もちろん、特別危険が予測されているわけではないが、「念のため」ということらしい。エジプトなどでは観光客を狙ったテロを防ぐために必要に応じて警察官がバスに同乗する事もあるが、こういうのは初めての経験だ。幸い旅行を通じて彼らの銃が役に立つことは無かったが、彼らの存在が安心感を与えてくれていたことも事実だった。

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4-1 カラコルムハイウェイ

 パキスタンでの最初の朝、目が覚めたのはモーニングコールのベルの音ではなくて、窓の外から聞こえてくるアザーンの声でだった。僕はお祈りの時間を告げる、アザーンの声が好きだ。これを聞くとイスラム圏へ旅行に来ているという実感が湧いてくる。朝、早くから街に鳴り響くのも、旅行中はたいがい僕はこの時間には目を覚ましているから苦痛では無い。

 でもこの朝は、響き渡るアザーンの声が恨めしかった。ナイトテーブルに置いた腕時計を見ると、まだ4時過ぎ。高級ホテルらしい、やや背の高いダブルベッドにもぐり込んでから、まだ1時間しか経っていなかった。モーニングコールは5時だ。もう一度寝ても1時間しないうちに電話のベルが鳴る。僕はアザーンの声を聞きながら15分ほど「抵抗」してから、眠ることを諦めて、ベッドを抜け出した。窓の外を見ると空がやや薄明るくなっていた。

 今日はこのツアー、最大の異動日。イスラマバードからフンザへの中間地点、チラスまで約470キロの道のりを約13時間かけて走破する予定。

 今回の旅行の目的地は2つ。パキスタン北部の山岳地帯のかつてのフンザ王国があった地域と、アフガニスタン国境に近いペシャワール周辺の、かつてガンダーラと呼ばれた地域の遺跡群だ。11日間という長い旅行期間のわりに、見所が少ないのは、フンザへ行くのに時間がかかることが原因だった。何しろ、今日が13時間、明日が9時間、バスに乗り通してやっとたどり着くことができるのだ。アンコールワットのあるシェムリアップだって1日で行くことができる時代に、行くだけで3日かかるフンザの地。まさにそこは「秘境」なのだ。

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3-2 インシ・アッラー

 空港のビルを出ると2台のマイクロバスが僕達を待っていた。このツアーには僕を含めて20人の参加者がいる。事前に旅行会社から聞いていたのは「利用するバスは20人乗りくらいのマイクロバス」だということだった。ほぼ毎日、街から街へと移動していく予定なのに20人乗りのバスに20人押し込められたのではたまらないと思っていたが、どうやら1台のバスを10人で使うらしく、僕の心配は到着早々に解消された。

 とりあえずどちらでも良いという事で1台のバスに乗り込むと、最後に一人のパキスタン人の青年が乗り込んできた。彼は「ワタシハ、リヒマット・アリ、トイイマス。ガイドノアシスタントデス。」と自己紹介をした。バスが2台なので、ガイドも2人付いてくれるらしい。とにかく、僕はバスにゆったりと座って旅行ができるということで満足だった。

 依然として雨が降り続く中、僕達を乗せた2台のバスはパールインターコンチネンタルホテルの車寄せの「手前」に停まった。雨に濡れながらホテルの入口にある金属探知機をくぐり抜けると、時計の針はすでに2時を回っていた。探知機は人が通るたびにけたたましくブザーを鳴らしていたが、だれもとがめられることは無かった。

 僕達20人はロビー横にあるカフェに通されると、翌日の予定の説明と、バスの割り当てについて説明を受けた。「みなさん、明日の出発は7時、モーニングコールは5時です。」添乗員の岡崎さんが申し訳無さそうに告げた。この分だと部屋に入って寝るのは3時。2時間しか眠れないことになる。時差が4時間あるので、日本を出発した朝に目覚めた時間から既に24時間が経過しようとしてた。徹夜をした後に2時間の睡眠、これはさすがに辛い。しかしだからと言ってスケジュールを変更することはできないことはみんな承知している。不満を言うものは誰もいなかった。

 そしてこの旅行を通じて、誰がどちらのバスに乗るかが告げられた。実は僕はイスラマバードの空港で2台バスがあることを知ってから、自分が誰と同じバスになるのかがずっと気になっていた。同じツアー客の中に成田からのフライト中、ほぼずっと、ひっきりなしに喋り通しで、周りの席の人たちから顰蹙をかっていた年配の男性がいたからだ。僕はうるさいのが苦手なので、この男性と同じバスになったら平和に10日間を過ごすことはできないと思っていた。おそらくどこかの時点で「黙らせる」ことになると思う。楽しむために来た旅行でそんな面倒なことはしたくないので、ただひたすら別のバスになることを祈っていた。

 岡崎さんが全員のバスの割り当てを言い終えると、あきらかに不安そうな表情の人と、安堵の表情を浮かべている人がいた。どうやら同じ事を考えていた人がいたようだ。そしてその男性は1号車、僕は2号車だった。

「インシ・アッラー。」

 僕は「添乗員」という名の神に感謝し、晴れやかな気持ちで部屋へと向かった。

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3-1 インシ・アッラー

 イスラマバードの空港にパキスタン航空のエアバスが到着したのは予定を3時間程過ぎた深夜だった。成田に使用機材の到着が遅れたのがそもそもの原因だったのだが、こういう場合、路線によっては100%は無理にしても1~2時間の挽回は期待できる。だが、今日はしっかりと「正確」に3時間遅れての到着だった。

 機内では「インシ・アッラー」で始まるアナウンスが流れていた。全ては神様の思し召し。到着が遅れたのも、とにかく無事に到着できたのも、全てはアッラーのご意志というわけだ。我々、無力な人間は全てを謙虚に受け入れなければならない。そしてもう一つ僕達を向かえた神様の「ご意志」、それは大雨だった。

 タラップを降りると機体から少し離れたところに、ターミナルへ向かうバスが停まっていた。誰かが「なんでもっと近くに停まらないんだ」と怒っている。日本ならなるべく乗客が濡れずに済むように気を遣ってくれるところだが、まずイスラム圏ではそんなことはしない。「インシ・アッラー」。僕はそうつぶやきながら、バスへと駆け出して行った。これから10日間、きっと僕は何度もココロの中でこの言葉を繰り返すことになるのだろう。

 入国審査にはずいぶんと時間がかかっていた。たいがい何処の国を訪ねても、日本人は簡単に通してもらえる。だが、さすがに対テロ戦争の最前線の国。一人一人の顔写真をパソコンに取り込んでいるようであった。

 何しろ、パキスタンの北西部はアフガニスタンと国境を接しており、両国にまたがってパシュトゥン人が暮らしている。「またがって」というのは「両方に分かれて暮らしている」という意味もあるが、ここではまさに国境をまたいで家が建てられたりしているのだ。だから残念ながらテロリスト達がパキスタン経由でアフガニスタンへ出入するのもたやすいことであるらしい。

 もちろんパキスタンを経由してアフガニスタンへ出入するのはテロリストばかりではなく、僕が並んでいた隣の列には、アフガニスタン難民を支援するNGOのメンバー達が並んでいた。

 ここは対テロ戦争の最前線の国なのだ。

 だいぶ落ち着いているとはいえ、国境地帯でのパキスタン軍による掃討作戦はつい先週終わったばかり。イラク情勢は悪化の一途をたどっている。911の時にハワイから出られなくなった事を思い出し、少し不安になる。

 「インシ・アッラー」

 係官からパスポートを受け取ると僕は再びつぶやいていた。

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